怪異妖怪をめぐる冒険が『きみの体は何者か』に結びつくとき

「怪異」とか「妖怪」とか呼ばれるものとの付き合いはずいぶん長い。

そして深く掘れば掘るほど、気づいてくることがある。

私が「怪異」とか「妖怪」とかを通じて考えていた問題意識とは、実は「身体と言語」をめぐる問題意識だったのではないか、と。

奇妙な体験をする。怪異や妖怪の「実在」を信じるかどうかはあまり関係なく、何かを体験してしまった人は、身体に「きみのわるい感じ」が残る。その「きみのわるい感じ」は言語にして人に伝えることでようやく自分の中で位置づけられる。それが共同体の中で位置づけられると、今度は「○○とぎ」「○○おとし」「○○鬼」のような、名前がつく。それによる「きみのわるい感じ」の昇華と、または、「きみのわるい感じ」の残滓に、私は興味を持ってきた。

ということは、少なくとも私にとって、妖怪学の関連科学は言語学であったということになる!!

そんなことを考えていた最近。

伊藤亜紗さんの「きみの体は何者か」を読んだ。主に吃音の問題を中心に据えて、身体と言語の関係を扱った、少年少女向けのわかりやすい本だった。

吃音による、言いたいことと、それが言えないこととの「ズレ」の話は、けれども、吃音を持っていない人が「無意識にでもべらべら喋れてしまう」がゆえに気づいていないたくさんの問題を抽出する。

そして本書が示してくるように、「自由にべらべら喋ることができる」ほうが、はるかにフシギで、異常で、よくよく考えると、危険なことなのだ。

ともかく。

本書が主張する、「ズレへの注視」というテーゼに私としてもとことん賛成をしたい。

そして、冒頭でも述べたとおり、私が「怪異」とか「妖怪」とか呼んでアプローチをしていた対象とは、実は「身体と言語のズレ」に対するこだわりであったのかもしれないわけだから。

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『妖怪の日本地図・九州沖縄』が示した「妖怪の四グループ」分類に賛同します!

児童向けの本でしたが、とても参考になりました。

千葉幹夫さん粕谷亮美さん、そして石井勉さんによる『妖怪の日本地図・九州沖縄』(大月書店)です。

何が参考になったのか。

この本の序文が、素晴らしい。

厳密には、この本の序文で語られている、妖怪観とよび妖怪の分類が、とても納得できるものなのです。

まず、

夜道を歩いていると、後ろから足音が聞こえますが、ふりむいてもだれもいません。夜の山中、だれもいないはずの場所で大木が倒れる音がします。川から見たこともない手が出てきて、人を水中にひきこもうとします。このように、人にとってふしぎなものやおそろしいことに名前をつけたものが、妖怪のはじまりと考えられます。

『妖怪の日本地図・九州沖縄』(大月書店)

私もこの妖怪観に賛同します。

一点だけ私ごときから意見をさせてもらえるなら、三つ目の例、「川から見たこともない手が出てきて」のところ。それはもうすでに「できあがった妖怪変化」との遭遇になってる気がするので・・・「妖怪のはじまり」を語る例としてはふさわしくないようにも見える。「川に落ちて溺れかけた人が、なんだか見えない手に引っ張られたような気がすると助かった後に言います。これも妖怪のはじまりです」とするなら、とてもよくわかる!まあこれは私の瑣末な異論。

他にも、この短い序文は実に面白い。

上述の箇所に続いて、妖怪を以下の四グループに分類する考え方を述べているのです。すなわち、

・自然現象に対してのフシギから始まったもの

・動物に対してのフシギから始まったもの

・古くなった動画に魂が宿る、という信仰からきたもの

・古代において滅ぼされた地方の小国が由来となるもの

いちばん注目したのは最後のやつです!

明言はされていないですが、大和朝廷に滅ぼされた東北やら九州やら山陰やらのことですよね。これを子供向けの本の中で避けることなく説明しているのは、素晴らしい。

古代において滅ぼされた」勢力の妖怪化を語るならば、「ツチグモ」問題という実に奥行きある深みにハマるのでここではやめますが、

すっきりと整理された妖怪観が、子供向けの平易な文章の中でキチンと表現されていて、こちらの本、たいへんな共感を覚えました!

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『となりのトトロ』の「ばあちゃん」は妖怪学の天才である!

※画像はジブリ公式サイトでの配布素材を使用しております

日本史上における妖怪学の先達の中で、私が完全にその学説に共感し、その立場を現代に継承しようとしている偉大な人物がいます。

となりのトトロの「ばあちゃん」です。

ところがこの妖怪学者の理論を体得するのは、たいへん難しい。

本人がいっさいの大学機関に身を置かず、在野に隠れて人生を過ごしたという特異な経歴である上に、

その思想をいっさい著作に残さず、口伝のみで周囲に語っていたからです。

よって私たちは、この天才的な妖怪学者の思想を、断片的に伝わるわずかな言説から、再構築するしかありません。

しかし、彼女の言葉は、妖怪理解という点で研ぎ澄まされた迫力を持っており、

わずかな断片でも十分に、後世の妖怪研究者の心を激しく震わせるのです。

一例を挙げましょう。

「ばあちゃん」が、妖怪ススワタリについて語ったとされる、以下の言葉です。

「こりゃ、ススワタリが出たな。だあれもいねぇ古い家に湧いて、そこら中、ススと埃だらけにしちゃうのよ。小ちぇー頃には、わしにも見えたが、そうか、あんたらにも見えたんけぇ」

ここで、その場にいた、普段は妖怪などに興味はないと思われる都会出身の人物が、「それは妖怪ですか?」と、いささか野暮な質問を、「ばあちゃん」にしたとされています。

それに対するこの妖怪学者の返答が、まさに、この人物の天才性を感じさせる、含蓄に富んでいます。

「そったらおそろしげなもんじゃねえ。ニコニコしとれば、悪さはしねぇし、いつの間にか、いなくなっちまうんだ」

どう見ても「妖怪の話」と思われる流れだったのに、「それは妖怪か?」と聞かれると、このようにはぐらかして論理的議論を解体してしまう。この含蓄の豊かさには唸らされます。

しかも驚愕なことには、この「ばあちゃん」、自らが「ススワタリ」だと説明したにもかかわらず、目の前にいた子供たちが対象の妖怪を「まっくろくろすけ」という誤った名称で呼んでいることを完全に許容し、むしろその名前を奨励しているような素振りすら見せるのです。

「それは妖怪であるか、妖怪でないか」など、どうでもよく、

妖怪」という定義も、本来的ではなく、

「ススワタリ」という自分たちの世代がつけた名前が、新しい世代において「まっくろくろすけ」と書き換えられることすらも、「それでよいこと」と許容する。

カテゴリー分けも、名前も、分類も、どうでもよい。彼女が重視したのは、「同じような身体的体験を次の世代にも体験させる」というただ一点の「共感」でした。

これは体型づけや名称にこだわる、井上円了とも、柳田國男とも違う。あえていえば南方熊楠の見解に似ていますが、ある面では熊楠よりも過激です。

妖怪学そのものの学問性すら切り崩しかねない、「身体体験一発のみを追う、ウルトラ現象学者」とでもいいますか!このような発想の人物が、アカデミズムからはまるでノーマークのまま、在野で生涯を終えたことは、しかし彼女の妖怪思想の過激さから見れば、運命だったかもしれないことでした。

だが私は、「田舎にいったとき、廃屋にいったとき、あるいは古い旅館に泊まったときに感じる、ゾワゾワとした、あの身体体験!」、あれこそが妖怪だと思いますし、名前づけや分類わけなどは結局は枝葉の問題、あくまでも身体体験に即して妖怪を感じたい。

私は「ばあちゃん」の思想をそのように理解し、継承していきたいと思うのです!

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日本妖怪変化史

今宵は、妖怪学の古典、江馬務先生の『日本妖怪変化史』について、語らせてください。

まず、この本について、一点の注意を。

これは「日本妖怪史」ではありません。「日本妖怪・変化史」でもありません。

「日本妖怪変化史」です。

まだ妖怪というコトバ自体が今ほどに市民権を確立していない時代。「おばけ」「妖怪」「妖怪変化」「魑魅魍魎」「もののけ」等々の呼称が屹立していた大正十二年という時期に出された本です。

それゆえに本書は、「妖怪変化」「妖怪」「変化」それぞれのコトバの定義から始めていますが、大文字の主語は「妖怪変化」です。

そして日本の精神史に登場する「妖怪変化」なるものについて、

「それを実在するものと仮定して、人間との交渉がどうであったか」を分類整理していくという、帰納的博物学の発想で、

妖怪変化を「形態的分類」「生まれた原因分類」「出る場所での分類」「出る時間での分類」「容姿や言語での分類」「性別職業(!)での分類」「能力弱点での分類」とカテゴライズ整理していきます。

つまりこれ、現代でいう「妖怪のデータベース化」の発想なのです!

江馬先生の仕事は、柳田國男先生にとって乗り越えられた先駆的業績などという言われ方もしますが、事態はそう簡単ではない。

われわれの祖先が妖怪変化を語っている事例を集め、徹底的にそれを整理分類するのみ、現代の視点から余計なことを付け加えないというデータベース主義は、むしろデジタル時代の現代にこそ、わかりやすい「妖怪研究方法」ではないでしょうか!

そして、「妖怪変化を、実在しているものと仮定して、あたかも動物学や植物学のように、観察報告をロウデータとして相手の生態や習性を分類していく」という、「昔の人の観察報告原理主義」ともいえるスタンス、私としても大賛成なスタンスなのです!

妖怪変化が「いる」とか「いない」とかの議論は一切無視し、「いると思っていた人たちには何がどう見えていたか」だけを問題にする立場。なるほど賛同!

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