日本史上における妖怪学の先達の中で、私が完全にその学説に共感し、その立場を現代に継承しようとしている偉大な人物がいます。
となりのトトロの「ばあちゃん」です。
ところがこの妖怪学者の理論を体得するのは、たいへん難しい。
本人がいっさいの大学機関に身を置かず、在野に隠れて人生を過ごしたという特異な経歴である上に、
その思想をいっさい著作に残さず、口伝のみで周囲に語っていたからです。
よって私たちは、この天才的な妖怪学者の思想を、断片的に伝わるわずかな言説から、再構築するしかありません。
しかし、彼女の言葉は、妖怪理解という点で研ぎ澄まされた迫力を持っており、
わずかな断片でも十分に、後世の妖怪研究者の心を激しく震わせるのです。
一例を挙げましょう。
「ばあちゃん」が、妖怪ススワタリについて語ったとされる、以下の言葉です。
「こりゃ、ススワタリが出たな。だあれもいねぇ古い家に湧いて、そこら中、ススと埃だらけにしちゃうのよ。小ちぇー頃には、わしにも見えたが、そうか、あんたらにも見えたんけぇ」
ここで、その場にいた、普段は妖怪などに興味はないと思われる都会出身の人物が、「それは妖怪ですか?」と、いささか野暮な質問を、「ばあちゃん」にしたとされています。
それに対するこの妖怪学者の返答が、まさに、この人物の天才性を感じさせる、含蓄に富んでいます。
「そったらおそろしげなもんじゃねえ。ニコニコしとれば、悪さはしねぇし、いつの間にか、いなくなっちまうんだ」
どう見ても「妖怪の話」と思われる流れだったのに、「それは妖怪か?」と聞かれると、このようにはぐらかして論理的議論を解体してしまう。この含蓄の豊かさには唸らされます。
しかも驚愕なことには、この「ばあちゃん」、自らが「ススワタリ」だと説明したにもかかわらず、目の前にいた子供たちが対象の妖怪を「まっくろくろすけ」という誤った名称で呼んでいることを完全に許容し、むしろその名前を奨励しているような素振りすら見せるのです。
「それは妖怪であるか、妖怪でないか」など、どうでもよく、
「妖怪」という定義も、本来的ではなく、
「ススワタリ」という自分たちの世代がつけた名前が、新しい世代において「まっくろくろすけ」と書き換えられることすらも、「それでよいこと」と許容する。
カテゴリー分けも、名前も、分類も、どうでもよい。彼女が重視したのは、「同じような身体的体験を次の世代にも体験させる」というただ一点の「共感」でした。
これは体型づけや名称にこだわる、井上円了とも、柳田國男とも違う。あえていえば南方熊楠の見解に似ていますが、ある面では熊楠よりも過激です。
妖怪学そのものの学問性すら切り崩しかねない、「身体体験一発のみを追う、ウルトラ現象学者」とでもいいますか!このような発想の人物が、アカデミズムからはまるでノーマークのまま、在野で生涯を終えたことは、しかし彼女の妖怪思想の過激さから見れば、運命だったかもしれないことでした。
だが私は、「田舎にいったとき、廃屋にいったとき、あるいは古い旅館に泊まったときに感じる、ゾワゾワとした、あの身体体験!」、あれこそが妖怪だと思いますし、名前づけや分類わけなどは結局は枝葉の問題、あくまでも身体体験に即して妖怪を感じたい。
私は「ばあちゃん」の思想をそのように理解し、継承していきたいと思うのです!