啓蒙の弁証法 哲学的断想 (岩波文庫 青692-1) [ M.ホルクハイマー ] 価格:1,452円 |
以下は、私の政治的な立場とは、また別の話。
あくまで、TwitterやSNSで見かける「時事コメント」のあり方についての話です。
まあ、すなわち、今大きな話題になっている、暗殺された元総理大臣のことについてとなりますが。どちらかといえば、既に亡くなった政治家に対して発せられるコメントのあり方について。
先日、ある方が、「(葬儀は)鳥葬でいいよ」というTwitterが発しているのを見かけ、
また本日は、別の方が、「(あの元総理大臣は)嘘つきだったから、いまごろ地獄で閻魔大王に舌を抜かれているだろう」というTwitterを出しているのを見かけました。
それぞれフォロワーの方もかなり多い有名アカウントの方でしたが、こういうタイプの発言は、そういうアカウントなればこそ、やめてほしいな、と思う次第です。
なぜか?
みっつあります。
ひとつめは、「死体が鳥についばまれる」も「舌を抜かれる」も、とっても残虐なイメージである点。生きている人間相手に「お前は鳥についばまれて苦しめ」とか「お前の舌を抜いてやる」とか、言わないでしょう?普通は。なのに、相手が死者だから許される、と思っている、気配があること。死人に口なしコメントのような。相手が死んだら残虐コメントもOKなのか?だいいち、普通にTwitterを見ていて「人間の死体が鳥についばまれているハナシ」とか「人間の舌が抜かれているハナシ」とかをいきなり読まされたら、気持ち悪いでしょう?
ふたつめ。「そうはいっても、鳥葬というものがよいイメージで捉えられている文化もある。鳥葬を毒のあるコメントの中でネガティブに使うのは、多文化配慮としてどうなのか」という点。ただしこれは、たくさんの方が指摘してくれている!ここで私ごときが繰り返す必要はありますまい。
では、みっつめ。私にとっては、これがいちばん大切かもしれない。
怪談や妖怪を研究している私は、当然ながら、日本の仏教や神道、民俗風習にもたくさん触れて生きてきた。そういう中で、やはり、死者に対する弔いは人間文化の根底であり、特に近代文化の隠れた水脈だと認識している、ということ。なにも仏教神道だけでなく、私の家にはクリスチャンの人もいますが、その方たちと話をしていても、近代宗教なら、ここは同じ。
だって、「生前の政敵が死んだら、その死体を辱めてやろう、墓を辱めてやろう」というのは、古代の専制君主の発想か、あるいは20世紀共産主義体制の発想では?、 文化的中庸と多元価値観を是とする(…と私は思っている)現代の市民社会には、そもそも合わないと思うのです。言ってはなんですが、「野蛮」さが取り憑いてると思う。
普段どんなにしっかりとした理性的なことを言っている方でも、政治的な論争でイライラすると、古代専制君主か20世紀独裁者が乗り移ったかのような、野蛮な暴言を吐いてしまうことがある。その典型のような。
かつてドイツのアドルノ、ホルクハイマーは、「現代人の理性的な政治発言も、野蛮さから解放されているわけではなく、(むしろ理性的なほど)いつでも野蛮に置き換わり得る」と見抜きましたが、
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現代的な政治的発言もアツくなりながら語っていると、見た目は理性的な言葉使いでも、コロリと野蛮な発想に置換されていることがままある。これは自分にも起こり得る危険として、是非に心がけたいものです。
この手のコメントをする人の意図はわかりませんが、イライラしてつい言ってしまったのか、読んでいる人に嫌悪感を与えて挑発しているのか、どちらかとは思います(まさかオモシロいことを言っているつもりだとは、さすがにないとは思いますが・・・)。
なお、私個人としては、「オレの政敵は死んだから鳥についばまれてもよい」とか、「オレの政敵は死んだから地獄で舌を抜かれているはず」とか言った発言に、実は嫌悪感は抱いていません。
「こういうことをパッと言っちゃう人って怖いな」と、純粋な恐怖感を覚えます。
もし日常生活で、政治的スタンスがどうであれ、そういう発言を堂々としている人がいたら、いざというときに何をしてくるかわからない恐怖があるので、なるべくお近づきにならないですよね?カッとなったら豹変して暴言を吐いてくるかもしれない人とは、そっと距離を置いて、一緒に仕事とか、しないですよね。TwitterやSNSでそういうコメントを見た時も、感じ方は、同じです。